Y新聞(うちでとっているわけではない←なぜか言い訳)の俳句欄に、私が俳句を習っていたときの先生のそのまた先生について書かれていた。その俳人は、季語をとても大切にしていたのだが、死の直前の句に、無季俳句(季語のない俳句)を作ったという。それは、俳句という文芸の意味と深い関係があるという。
つまり、季語を使わない=死であるから。
俳句は、季語を通じて宇宙や自然の力とつながる文芸である、というのは高浜虚子から言われていることなんだって。季語を通じて自然を感じていると、自分の命に限度があるってことを忘れさせてくれるって。へー! それって、園芸と一緒じゃん! 私が
「園芸は宗教活動だ」で思ったことと同じじゃん!
だから、俳句教室は年配の人が多いんだ。40代で「若手」とか言われちゃう世界なんだ。だから、園芸店には若い人が少ないんだ。20代のピチピチした人なんて、まずいない。カレル・チャペック大先生だって、「若い頃は花なんて、女の子に贈るものだとしか思ってなかった」って書いてた。
36才にして、ブルーベリーの人工授粉をした自分。26才のときは、16才のときは、こんなこと、想像もしなかったなぁ。自分の受粉行為で忙しかったの、そのときは。ははは。でも今は、自然の力とつながっていたいんだなぁ。
農薬を使わず、無理な剪定もせず、それぞれの個性にあったところにいろんなものを植えれば、自然と素敵な庭ができあがる。そんなポール・スミザーのナチュラル・ガーデンの思想にほれ込む人は多いだろう。
だって「ありのままでいいよ」って言われているようなものだもん。無理に嫌いな習い事とかしなくても、好きなことだけやっていればそれでいいんだよ、って、ああ、私は親にそう言われたかった。
「園芸は植物と人間の妥協の産物だ」という考え方でいけば、盆栽は人間の都合をより優先していて、ナチュラル・ガーデンは植物の都合をより優先していることになるのかな。
とすると喩えて言うなら、盆栽は犬の芸、ナチュラル・ガーデンは猫サーカスなんじゃない!?
猫のサーカスってご存知でしょうか? ロシアで行われているもので、日本にも
ククラチョフさんの猫劇団がよく来てました。猫が芸をするなんて、信じられないよねー。私も絶対あり得ないって思った。猫って、絶対に人間の言うことをきかないもの。でも、サーカスではちゃんと芸をしているのよ。驚くべきことに。
なんと、彼ら、芸をしつけられたとは思っていないのであります。彼ら、遊びのつもりでやっているのであります。うちの猫もそうだけど、遊んでいる途中で、なんかおかしな遊びを開発しちゃうことがある。だから、人間がうまーく誘導して、芸になりそうな遊びを一緒に開発すると、人間の足の間を8の字に歩く猫とか、長い棒につかまったまま振り回されても全然嫌がらない猫とかが、誕生するってわけ。猫にとっては遊び。全然苦じゃない。(犬は犬で命令されるのが喜びなんだろうけどね)
無理に方向性を決めるだけが園芸(サーカス)じゃない。その植物(猫)のしたいようにさせても、芸になる。盆栽みたいなの(犬のトレーニングみたいなの)だけが園芸(サーカス)だと思ってた人からしたら、目から鱗だよねええ。
スタンダードジャズの「恋とはなんでしょう」のパクリ。
春は芽吹いて花が咲き、夏に受粉して、秋に実って、落葉して、冬はお休み。そんなイメージがあるけど、実際はそんな単純なものじゃないみたい。
夏が終わったら、涼しくなったから喜んでツルが伸びたりする。春みたいにスクスクしてる。花芽がつく。その一方で、葉が黄色くなって落ちる。え〜、じゃあ、新しくのびた葉も落としちゃうの? もったいなくない?
それと、どの季節でもそうかもしれないけど、一年を4分の1にするのは大雑把すぎるよね。半月ぐらいでどんどん変わる。秋バラと一口に言うけど、咲くのは10月の終わりぐらいからだし。
昔俳句をやっていたときは、今は秋だから、と秋の歳時記を開いて選んでたから、実際にはそのときは咲いてない花とか季語として使っちゃってたんだろうなあ。
それにしても、園芸って安上がりだ。
バラの苗+送料で3〜4千円。東京宝塚劇場のB席一回分だよ(←いかにもヅカファン的発想)。たったそれだけのお金で、ずぅーっと楽しめるんだよ。ホームセンターで小さい花の苗を山のように買ってもA席一回分にはきっと届かない。SS席一回分消費しようと思ったら、かなり立派に育った何メートルもある樹を買わなくちゃいけない。
ま、ずっと楽しむには、こっちの労力が必要だからなんだろうけど。(つまり、舞台芸術は一回一回によっぽど人件費かかってるってことなんだろうけど)
でもさ、向いてない私からすれば、種や接木をそれなりの苗にするだけでも、かなりな労力だと思うよ〜。園芸屋さんって、ちゃんと儲かってるのかな?? 飲食店や八百屋さんと同じぐらい不思議。ナマもの扱ってるのに、なんであんなに安いんだろう。無農薬で虫つきまくりを目の当たりにすると、ますますそう思う。
「女子どもに園芸がわかるかー」みたいな男性を見かけるのですが。
なんでそんなに必死なのかな? と不思議なり。だって、盆栽っていやぁお爺ちゃんの守備範囲で、生垣の刈り込みっていやぁお父さんの役割ってイメージじゃないすか。オタクっぽく突き詰めてなんでも集めたり飼育したりするのって、統計的に男性のほうが多いことになってるじゃないですか。
なのに、ことさらに言い立てるのは何故なんだろう。誰にも虐げられていないと思うが…
「ガーデニング」とかいうかわいらしい言葉でふわふわひらひらしたものばかりを推奨する女性園芸家がもてはやされているのに、どうして本来の園芸家である自分たちは正当に評価されないんだろうか、ということなのかな。
でも、なぜに性別をことさらに言い立てるのだろう? 冗談として「これが男の心意気じゃあ」みたいに言うのは面白いし、豆知識的に「男のほうが園芸が得意なんだって」って言うのはまだ面白いけどねぇ。性別から離れて、純粋に園芸だけを語ることはできないんだろうか??
ていうか、こういう人がもし近くにいたら、ことあるごとに「これだから女は」とか言いそうで、危険な気がしちゃうんだなあ。近寄っちゃダメよって本能が警戒してる。あっ、こういう考えこそがおじさんたちからしたら「ジェンダーフリー」で危険思想なのか! ほほ〜う。
どうして嫌いかは、頭ではわかってる。人間は脊椎動物の頂点、虫は無脊椎動物の頂点。脳で世界を支配する人間と、まったく違う方法で世界を支配しようとする虫。理解できない敵どうしだからだ。
と、頭でわかっていても、生理的な嫌悪感は克服できないよー。憎いとかそういう積極的なものではなく、とにかく、存在を認識したくない。虫が人間を脅かす!という根源的な恐怖心が強すぎて、存在すら忘れたいの。
なのに、庭には虫がいっぱいいる。庭はベランダより包容力がある、と書いたけど、それは私のような「向いてない」人を包容するだけでなく、虫もたくさん包容してるってことなのだ。
「存在を認識したくない」から放置しておくと、植物がやられてしまう。かといって、薬剤をたくさん振り掛けるのは、自分にも植物にも危険性が高い。じゃあ一番いいのは捕殺することなんだが、これは「存在を認識したくない」という私の希望にもっとも反している! だって、つかまえたときに感触が伝わるじゃんー。つぶすときに、むちゃくちゃ感触があるじゃんー。かといって、水没させるだけじゃ死なない虫も多いし。
あまりにも都会生活が長すぎるのかなあ、自分。「自然」とどう接したらいいか、わからないのだ。植物の力に畏敬の念を抱いている。抱きすぎて、間引きもしたくなくなっちゃう。だとしたら、虫にも畏敬の念を抱いて、どんどん繁殖してください、みたいに思えないのか。いやいや、そしたら人間が困る事態が発生してしまう。じゃあ、植物も虫も、人間がどんどんコントロールして、薬剤どんどん撒いて、霊長類としての威厳を見せつけて、支配していくべきなのか。いやいや、それは自嘲派ガーデナー(勝手に命名、開祖はカレル・チャペック大先生)として間違ってる気がする。ああ、葛藤。。。
ほんとは、植物も虫も人間も、みんな「いて当然」なんだよね。「存在を認識したくない」ってとこがもう間違ってるんだよね。「いて当然」であって、敬いすぎたり、支配しすぎたりするものじゃないんだよね、きっと。距離のとり方が、わかってないんだ、自分。そして、「利害関係にあるときだけは対策を講じる」。そんな当たり前のことが、どうしても納得できないんだよなあ。
よく「野良猫には野良猫の生活があるんだから、放っておけ」と言う人がいるでしょ。それって私は間違いだと思うのです。猫は人間が改良(改悪?)して、人間と一緒にいる用に変えた動物なのだから、もちろん無理強いはいけないけれども、人間がある程度の世話をする必要があると思う(犬はもちろん猫よりももっと人間がリードしなければいけない)。そもそも、野良猫の祖先をたどっていけば、人間に飼われていた猫にたどりつくよね??
というのと同じように、人間社会の近くにある植物は、人間が世話をしないといけないようになっているのかもしれないなあ。と思う今日このごろ。私は、植物は放っておいて好きにさせてあげたい、とどうしても思ってしまって、剪定とか間引きとか草むしりとか気の毒になってしまうんだけど、それは自分が管理されたくないという心情の現われにすぎなくて、人間の近くにある植物は本当は人間と一緒に世話されながら生きていくのが一番いいのかも? ということに気がつきはじめた。
そうしたら、『めが先生の手抜き園芸』(妻鹿加年雄著 家の光協会 1999.4)という本に「園芸とは、植物の都合と人間の都合の妥協の産物である」と書いてあるではないか! なるほどー、やっぱりそうか、と膝を打った。そこまではっきり言ってくれる本ってなかなかない。たいていの園芸書は、園芸そのものの可否なんて書いてたら成り立たないものね。
植物は自分の都合で成長するけど、品種改良されちゃってるバラなんかは、人間の世話なしには成長できない。人間は人間で、きれいな花を見たいだの、自然に触れたいだので、植物を手元に置いておきたい。その妥協点をどこに見出すか、だ。人間の都合をより優先させる人は、農薬もバンバン使うし、品種改良もバンバンする。自然を支配する喜びで園芸をしてる人もたくさんいるだろう。一方、植物の都合をより優先させる人は、雑草を抜かない。品種が交雑しちゃっても、おいしくないミカンがなっちゃっても気にしない。でも、どっちにしても、人間と植物が妥協し合ってることには変わりはないんだ。
ま、私なんかのようなド素人の場合は、妥協していただいている、協定を結んでいただいている、世話させていただいている、というような謙虚な気持ちでいたほうがいいのかもしれないけどね。
きのうは水草だけを買うつもりだったのに、サカタのタネでほしいのが売ってなくて、でもせっかくだから、みたいな感じで、いろんなタネだの鉢だの種まき用品だの、それから前に買いそびれたコリアンダーだの、初めて見た姫シャクナゲだの、とにかくいろいろ買ってしまって、それからホームセンターをはしごして意地になって水草を買って、家に帰ったら7時だった。もう園芸タイム終了じゃん。。。急いで植え替えたけど、あまりにも疲れて、ぐったり倒れてそのまま寝てしまった。
ちーっと、手を広げすぎてるかもなあ。広さはベランダの何倍もあるけど、労力は同じなのよー>自分。大体、土の改良のために、トウモロコシまで植えるって、どうなのよ。掃除も洗濯もしないで園芸ばっかりしてるって、どうなのよ。
と思いつつも、朝起きたらやっぱり、庭の巡回をしてしまった。。。カレル・チャペック先生、いとうせいこう先生、助けてー。
カラースキームといって、あらかじめ配色ルールを決めて庭を計画的に作る考え方があるそうだ。「青と黄色だけのお庭にするわ」とか。
ふ〜ん。でもそんなの、自分の好きなものを揃えていったら、絶対に統一感が出るって。服だって、「あの服にあわせるために、この色を揃えておこう」なんて買ったものは絶対に着ない。「キャー、かわいい!」と思って買ったものは、どんなものでも後悔しない。そして統一感がある。もっと自分を信じろって。
庭持ちになってわずか3ヶ月。はやくも、自分の説に間違いはなかったことを感じ始めた。ニオイスミレにパンダスミレ、アジサイ、ブルーハイビスカス、と買ったものは青紫ばっかり! あとはナイトライダーという赤黒い椿と、白いハゴロモジャスミン。青と赤中心で、白添え物って感じでどうよ。はからずもトリコロールだ〜。
あっ、でも、すでに植わってるキンモクセイが咲いたらオレンジじゃん…。けど、少なくとも「黄色がない」ってのは貫けそうだぞ! 黄色って、なんか能天気で好きじゃないのよね。
しかし、「カラースキーム」に打ち勝った「自分の感覚」は、「自然」に打ち勝つことはできなかった。きのう、突如、庭に黄色い花があらわれたのだ。私はこの植物と、もう5年も一緒に生活してきた。にもかかわらず、黄色い花が咲くなんてことをついぞ知らなかった。5年間一度も咲かなかったのだから。
スイレンが億劫がって葉をしげらせないときも、アサザ(名前も今知った)はスイレンによく似た葉を一生懸命しげらせていたものだ。いて当然、花が咲かなくて当然、そう思ってきたのに、なぜか突然花が咲く! しかも好きじゃない黄色! 葉はスイレンに似てるのに、花は全然似てなくて、まるでキュウリ!
もう、なんでもいいです。カラースキームも、自分の感覚もどうでもいいです。だって、突然花が咲く、この神秘にいったい何が打ち勝てましょうぞ?
植物ってのは、枯れたらイコール「死」だと思ってたんですが、種蒔きをしてみると、全然そうではないということがわかりました。種という形になってお休みしているだけなんですね。サイクルの「お休み」モードに入っただけで、そこから芽を出して活動をはじめて、また枯れて種を残してお休みに入って。それを延々と続けていくんですね。
落葉樹も冬になったら葉を落としてまるで全然生きてないみたいに見えるけど、それはお休みしているだけで、かなり強引に剪定しても、春になったらまた芽が出てくる。うーん、すごい。
そのサイクルは、一年という期間だけじゃなくって、一日の中でも、夜は休んで昼は活動しているわけです。
あら、人間みたい。
人間も、夜は休んで、昼は活動してますね。そして、土日は休んで月曜にはまた活動します。(だいたいはね。有給休暇とかもあるけど省略ね)一年のうち冬はあんまり活動的じゃなくて、春や夏が活動的ですよね。若者は春に恋に落ちたりしますね(違う?)。それを延々とくりかえして、だんだんと弱っていって、最後はお亡くなりになる。けど、すべてが死に絶えたわけじゃなくって、人間という「種(しゅ)」はちゃんと続いています。それに、子孫という挿し木だか株分けだか種だかは残している人も多い。子孫を残していなくっても、その人の与えた影響は少なからずどこかに種として飛んでいって、芽が出るかもしれないし、出ないかもしれないし。
そう考えると、死ぬこととか、財産を継いでくれる子どもがいないだとか(注:私に財産があるわけではナイ)、そういうことはどーでもいいような気がしてまいります。種がとんでって、どこかで芽が出てるかもねー。私はとりあえず長いお休みに入るけど、またねー、みたいな。
そういえば、前に住んでた公団に、いけすかないオバサンがいた。その公団はとっても古くて、ベランダもなけりゃあ網戸もない、当然園芸らしい園芸なんてできない代物。
その鬱憤をはらしているのか、そのオバサンは、近所の街路樹の下なんかに、お花を植えてしまったのだ。それで、なんと、区から表彰されちまったのだ。そのオバサンの誇らしげな顔ったら!
この話を友人にしたら「まるで美化委員だね!」とのこと。言い得て妙だ〜。いたいた、そういうヤツ。先生の机に花飾っちゃうのね。
そういうのがトラウマになってる気がする。園芸を頑張ってる人を見ると、「いい子ちゃん、しやがって」って思っちゃうんだよなあ。ほんとはそうじゃなくて無心にやってるだけかもしれないのにね。
朝起きてまず庭の植物たちを確認する。帰宅してやはり庭の植物たちを確認する。まるで、信心深いおばあさんが毎朝毎晩、仏壇を拝むみたいだ。そして、植物に水をやる行為は、おばあさんが仏壇に線香をあげてるみたいだ。
毎日毎日、空調のきいた電車で都会のど真ん中に出かけ、ビルの中で機械に向かって仕事して、なのに電車はとまるしパソコンは壊れるし、人間の作ったもので確実なものなんてひとつもない。だけど、植物は季節になれば芽吹くし、季節になれば枯れる。そしてまた芽吹く。雑草は踏まれても踏まれてもまた生えてくる。なんという確実さ。なんという力強さ。
古代の人々が太陽や月を崇めた気持ちが、なんだかよ〜くわかってしまうのよ。ついつい庭に出て、ついつい植物の手入れをしてしまうのは、ものすご〜く原始的な欲望なんだ。自然の力を崇めたいのよ。そうすれば、なんかご利益があるよーな気がするのよ。
ご利益っていっても、病気平癒とか縁結びとかそういう現世的なご利益じゃないんだな。うーん、死んだら西方浄土に行けますように、みたいなそういうご利益。死んだら「無」になりますように。ちゃんと自分の身体が土に還りますように。火葬して墓なんか作らないでよ。人間も自然の一部だって、思っていたいの。自分の中にこんな欲望があったなんて、なんだかビックリ。
でも、条件があわないと機嫌が悪くなって枯れたり、剪定を要求したり、とムラ気なあたり、絶対神ではなくて八百万の神やギリシャ神話の神々ってところかな。

よくよく見ると、半径100Mぐらいの中に、ハゴロモジャスミンが4つもあった!
私のように真似しようと思ったのか、それとも一軒家どうし仲良しで「あら、いいわね」「じゃあ分けてあげるわよ」てな感じで増えていったのか。そういえば、隣りあった家で2軒とも花かいどうが植わってたりする。
分担していろんな植物を植えたほうが効率いいと思うんだが、ご近所の影響ってのは強いんだろうなあ。きっと、ふと気付けば同じ花ばっかり町内って、各地にあるに違いない。
ハゴロモジャスミンを買ったお店から、「地植えのものはこれから咲くけど、鉢植えは温室栽培なのでもうすぐ花が終わりです」との連絡が。来年咲くんだから、それはそれでいいけど、あらためて、「そうかー、売ってるものって、温室で早めに育ててるんだ!」とちょっとビックリ。
5月に種まきしたほうがいいバジルが、苗の状態で4月初旬に売ってるって、そりゃー、温室で育てたからなんだよねぇ。ある程度、花が咲いてたり、芽が出てたりっていう成果(おお、まさに「果」実が「成」る)がある状態でなきゃ、客は買わない。だから早めに育てる。そーすっと、自然の状態とはずれる。当たり前じゃないかあああ。
そもそも、植物の流通時期ってのがよくわからない。植物ごとに育て方を調べても、植えどき、移植どき、花期、剪定時期は必ず載ってても、流通時期ってのはなかなか載ってないんだよねー。経験で知れってか? 一番オイシイときに売られるんだろうけど、でもそれが植え替えに適しているかどうかはまた別だよねえ? オイシイときがいつかってのも、人によって違うよね? 同じ植物でも花を見たい人と葉を欲している人がいたりするかもしれないじゃん、ハーブとか。うーん、流通にはどういう法則があるのかなあ??
前ほど園芸に抵抗感がないのはなぜだろう? お庭を見ていると楽しい。ベランダはそんなに楽しくなかった。やっぱり、地面があるっていいなぁ。
地面は水をためておいてくれるから、庭木はそんなに水遣りをしなくていいんだってね。なんて楽なのかしら。
それに、土とか葉とか散らかしても、そんなに神経質に掃除しなくて済むのも、いい。
要するに私、細かな作業が面倒なだけだったのか。盆栽とかもってのほかだろうな。
庭にがつーんと植えて、テキトーに水やって、がっと剪定。うーん、理想的。
と、言うそうです。それだけ難しいのだそうです。
それじゃー、小学生レベルの私には無理で当然なのね。
とにかく「乾いたら水をあげます」というのがわからない。どういう状態が「乾いた」なんだろう?
母がよく「お花さんが水くれって言ってるからわかるのよ」とか、おかしなことを言ってたけど、そういう抽象的なことでは、まったく!! わかりません。
触って湿っていたらあげなくていいの? 表面が白く乾くぐらいまで待つの? 水が好きな子は乾いてなくてもあげていいの???
人が植えてるぶんには、どんな植物でも、ほぼ99%、目に心地いいものだが、自分で育てるまでのモチベーションをもたらすほど「好き」かどうかとなると、話は別だ。
どんなに楽だと言われても、ゼラニウムとかペチュニアとか、
なんだかダサーって感じで食指が動かない。
花水木とか槿とかも、ちょっとモッサリしてて、惹かれないなぁ。
難しいと言われても、やっぱりバラには挑戦したいし、植える場所がないと言われてもノウゼンカズラは諦めがたい。
園芸好きな人はどんな植物でも好きなのかしらん?
なんといっても観葉植物。母がたくさん育てていたので、よくもらいましたが。どうにも扱いがわからない。
ポトス、今思えば、たぶん水をあげすぎたのでしょう。ぐったりしてしまいました。名前もわからぬ観葉植物、今思えば、たぶんカイガラムシというのがついていたのでしょう。ベタベタする白いものが発生して、一生懸命取り除いたりしてたんだけど、みるみる元気がなくなってしまいました。スパティフィラム、今思えば、肥料をあげるべきだったのでしょう。花がだんだんつかなくなりました。
なんといっても、猫がいたずらするので、ベランダに出したこと。真冬に当然枯れました。。。
なんか鉢植えの花を買って、すぐ枯らしたこともあったなぁ。水やりも仕方もよくわからないし、日当たりも悪かったと思われます。
比較的成功したのは、朝顔。毎年GWに種を植えて、窓際やベランダに置いて、真夏にけっこう花が咲きました。小学生でも育てられる植物だもんね(笑)。
あと球根。それも、アネモネとかラナンキュラスは無理、花がつかなかった。かろうじて成功したのは、ムスカリとかクロッカス。今思えば、かなり徒長してたけど、とりあえず花がいっぱい咲きました。
ようするに、小学生レベルってことですな。
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